シンクタンクからの眼 2026年2月26日
我々は何処から来たのか Where did we come from?『Wisdom Columns』
我々は何処から来たのか__宇宙は生命で溢れている/パンスペルミア説の説得力__
日本では、関白(天皇勅許権)や征夷大将軍(幕府最高司令官)の権力に眼もくれず宣教師贈呈の地球儀に見入っていた天下人・織田信長(1534~1582)がいた時代に、イタリアに近代以降の宇宙観を先取りした哲学者で天文学にも造詣の深かったジョルダーノ・ブルーノ(1548~1600)がいた。コペルニクス(1473~1543)の地動説が未だ受け入れられない最も早い時期、J・ブルーノが天動説を退けこの宇宙観を受け入れた最初の著名人であった。後年ガリレオ(1564~1642)もドイツのケプラー(1571~1630)の擁護を受けたが地動説を支持したためローマ教皇庁より一時的に有罪判決・終身刑を受けた。宇宙観の大きな転換期を迎えたこの時期、ブルーノは地球も太陽も宇宙の一つの星に過ぎないと主張、地球だけが特別の星であるという当時の常識=キリスト教的宇宙観を覆すものとなった。彼にとり神とは心の中に内在する存在であり、宇宙の何処かにある天国から地球を観ているものではない、と考察。彗星は神の意志を伝える役割をもって天界から到達するとも考えていた。現代の彗星パンスペルミア説に一部通じる内容といえよう。即ち総てが地球中心という解釈に対し、彼は身を挺して地球のような星は宇宙に沢山あると言っただけでなく、それに応じて生命体もいると主張。このため異端判決を受けたが尚自説を撤回せず、1600年ローマ教皇庁により焚刑(火あぶりの刑)に処せられたのである。彼の無限宇宙観を基軸とすると、“かけがえのない地球”という概念が崩壊するのである。その後コペルニクスの地動説は当たり前の常識となった。20世紀に入り教皇ヨハネ・パウロ2世のもと、ブルーノの名誉も回復、「処刑判決は不当だった」との判断が下され、1979年カソリック教会は公式に異端判決を取り消した。今ではローマ市内のパンテオンの近く、テベレ川沿いにあるブルーノを処刑した同じ広場の真ん中に『ブルーノ像』が修道士然として立っている。
宇宙誕生の進化に関するビッグバン理論にも紆余曲折があった。20世紀初頭、宇宙は永遠に静的で全体として変化がないという定常宇宙論の概念が支配的な中、“宇宙に始りがあった”__とする考え方は科学者に衝撃をもたらした。アインシュタイン(1879~1955)でさえ(後に人生最大の過ちと述べた訳だが)宇宙を安定させるための宇宙定数(Λ)を導入したくらい。周知の通り、一般相対性理論の重力場方程式をそのまま使えば「宇宙は膨張するか、収縮する」という解しかでない__にも拘わらずである。それは兎も角、定常宇宙論の提唱者は英国ケンブリッジ大学天文学研究所長で宇宙物理学者であったフレッド・ホイル(Sir Fred Hoyle:1915~2001)。宇宙には始りがあったとするG.ガモフ(1904~1968)の『火の玉宇宙論~後のビッグバン理論』に対し、F.ホイルの「宇宙には始りや終わりはなく今ある姿で存在し続ける」とする『定常宇宙論』との深遠な論争は決定的証拠が無く、約10年(1940~1950)間も議論が続いたことが知られている。因みにビッグバンの呼び名自体、ガモフの自説を“Big Bang”(大爆発~大ボラ吹き)と揶揄したホイルだが、ガモフはこの揶揄を逆手にとって今日の『ビッグバン理論』の名称が定着した。
宇宙論の愛好者には説明の必要がないけれども、ビッグバン理論とは、原始宇宙は超高温、超高密度だった特異点(Singularity/密度∞の状態:NASAによれば138億年前)という宇宙誕生の起点があり、それはゆっくり膨張するとともに冷却しているというもの。この解明のため、A.フリードマンの宇宙モデル、E.ハップルの宇宙膨張説(赤方偏移)、G.ルメートルの宇宙原子起源説やクエーサー(準恒星状天体)の発見などの歴史を経て、遂にベル研の2研究員による宇宙背景輻射(宇宙は太古の昔「眩しい光」だったものが、今ではどの方向でも絶対温度3Kに対応する「微弱な光{電磁波}」が宇宙に漂っている)の発見(ノーベル賞受賞)で議論に一応の終止符が打たれた。しかし現在でも、その特異点(ビッグバンの瞬間)以前には何があったのか等、未解決問題が残されている。宇宙科学理論とは本質的に「仮説の集合体」であり、その後F.ホイル等による『準定常宇宙論』の再提示他もあり、ビッグバン理論が宇宙モデルとして100%正しいと断言された訳でもない。
このビッグバン理論の名付け親的立場となったF.ホイル卿は20世紀初頭、宇宙の様々な元素はどの様に作られたか?という長年の疑問に『元素合成理論』(宇宙に存在する元素は、星の内部や星の最後の爆発過程で作られたとする理論)を主導(従的共同研究者にはノーベル賞受賞)という天体物理学の基礎的考察で高い評価を獲得した学者。“我々は星の屑(star dust)で出来ている”__との象徴的な言葉がある。彼は『定常宇宙論』とは別に、『パンスペルミア説』の提唱者でもある。パンスペルミア説とは生物学辞典によれは地球上の原始生命は他の天体から隕石等に付着して到来したもので「生命は地球外に起源がある」と主張する学説。この用語が最初に使われたのはS.A.アレニウス(Arrhenius:1858~1927)の『宇宙発展論』の中で、地球生命の起源と進化に関し、宇宙からやってくる微生物が進化したもの、との考え方に基づいている。F.ホイルは更に考究し、素人的に乱暴に言えば、地球上の生命(バクテリア等)は彗星内で発生、彗星が地球に衝突、あるいは接近した際、その中の生物が地球上にこぼれ落ちたと考察し、それをパンスペルミア(Panspermia)と呼んだ。語源はギリシャ語のパン(汎:すべて)とスペルム(種)を組み合わせたもの。彗星とは太陽系小天体の内、主に氷や固体微粒子でできた塵(有機物含む)やガス体のことである。
筆者がパンスペルミア説に強い関心を持ったのは四半世紀程前、シアノバクテリア(藍藻)農法を知り、シアノバクテリアが地球36億年前に生物世界最古の化石として発見されたことに起因する。飛躍して考察すれば、藍藻リッチの土壌にすれば工業化で劣化した土が回復、農業も蘇る方向になる、と確信したためである。幾つかの文献によれば、シアノバクテリアのような微生物は南極の極寒土壌、深海の熱水鉱床の噴出し口、深度8km下の地球地殻内部、上空の対流圏、成層圏でも生存が確認されており、寿命が4千万年から2.5億年のものもいる。また彗星等の大気圏突入時に耐えうることも可能との報告もある。
こうした中、惑星科学者・松井孝典東大名誉教授著『スリランカの赤い雨』(生命は何処から来たか)と題した書籍が友人の所源亮氏(ISPA:宇宙経済研究所代表・元一橋大学特任教授/本書出版企画者)から送られてきた。本書は後述する英国の研究者との対談形式で構成されている。その導入は2001年インドのケララ州で数百kmにも渡る地域で赤い雨が目撃されたこと、また2012年スリランカの広範な地域で“血のような赤い雨”が降ったこと、更には同年9月に、隕石共々再び農地の水田に長期間、間断的(15分間隔)に赤い雨が降るというパターンが繰り返されたこと等々。この事象はインド人研究者等によって電子顕微鏡観察、染色蛍光分析等によるDNA存否など含めた報告書があり、赤い雨の正体はμサイズの単細胞原核生物であるらしいと詳述。また1996年NASAの研究者Mckey等が火星からの隕石の付着物にも触れ、地球のシアノバクテリアに似ているとの衝撃的な発表もあった。これらは細胞壁の外側にウランが含まれたり、リンが無く、ヒ素が混入されていたようで「赤い雨と星間塵」研究から宇宙由来ではないか?との検討も進められている。
数年前英国ロンドンから列車で2時間ほどウエールズの首都カーディフ(Cardiff)へ行った。ここでカーディフ大学教授・兼バッキンガム大学アストロバイオロジー(宇宙生物学)研究所長である天体宇宙物理学者チャンドラ・ウィックラマシンゲ(以下チャンドラ)博士とお会いした。チャンドラ博士(前述の『スリランカの赤い雨』の対話相手)はスリランカ生まれの秀才。セイロン大学卒業後英国ケンブリッジ大学へ留学、ここでF・ホイルと面会、指導教官と大学院生の関係で師事し、後に共同研究者となった。対面時、ホイルに対する敬慕の念を聴きつつ、アストロバイオロジー関連の書物がびっしり詰まったチャンドラの自宅書斎で、母国スリランカから英国カーディフへ送られてきた幾つもの小隕石や写真他を見せて戴いた。奥様のプリアさんも同席、チャンドラは落下した隕石の表面がケイ素の彗星物質の凝集体であることや、付着物のバクテリアのような細菌(=生物:4~10μサイズ)だけでなく、ウィルス(=生物と非生物の中間物質:0.1~0.3μサイズ)の存在についても言及した。因みにウィルスは細胞構造を持たないがDNAかRNAの遺伝情報は有する。
パンスペルミア説は「最初に生命はどの様に生まれたか?」との生命起源問題(後述)を先送りしている点で批判がある。しかしチャンドラ博士は、起源云々より先ず帰納的に「宇宙は生命で溢れているのではないか」と考察する。何故なら宇宙の至る所に存在する塵は、宇宙生成観測に必須の赤外線スペクトル精査(赤外線天文学)で、地球上の乾燥した大腸菌や微生物と驚くほど似ている。チャンドラはこの観測法で、生まれつつある星や、惑星系円盤を構成するガスや塵の構造や運動が分るとし45年間も研究、多数の論文もある。
他方この説は、ダーウィン(1809~1882)の「地球上の生命は、突然変異と自然選択を基礎とした」進化論(『種の起源』)と対峙するのだ。ダーウィン進化論はいうなれば「原始地球の温かい海の中で、生命の材料物質が作られた」という考え方。その自然選択説は(何か分からないが生命誕生後に)突然変異があり得ることを述べており、一般の誤解を生みやすい。生命の起源自体は不問のままなのだから。自然選択説でよく誤解されるのは、もし進化論に準拠し生命が地球上から発生したとするならば、無機物だらけの地球創生期、無機物から有機物へ、有機物から生命へと変遷をたどる必要がある。だとするとルイ・パスツール(1822~1895)が約150年前に証明した「生命は生命からしか生まれない」という論理に反する。端的に言えば何十億年かけても鉄鉱石からネズミが生まれる可能性は殆ど無い筈だと。
一方、1970年代以降、米ソの研究者や英国のM.ウェインライト教授が成層圏(地上50km)やそれ以上の大気層に各種の精密気球を打上げて微生物を回収。チャンドラ博士も2001年インド宇宙研究機関(ISRO)の協力を得てハイデラバード上空の成層圏各高度で微生物を回収、これらの分析結果を総合し、地球上の生命とその進化は過去40数億年にわたり彗星が運んできた生物に起因するというパンスペルミアモデルと一致していると自信を述べた。
チャンドラ博士は、隕石を含め太陽系の誕生時に宇宙塵(有機物有)から生まれた彗星(comet)が地球に生命をもたらしたと改めて説明する。その数は天の川銀河系だけで数千億個にもなる。生命の存在を示す最も強い根拠は宇宙で4番目に多く存在する元素:炭素12の同位元素。因みに人間は60%が水でできており、これを除くと残り約50%が炭素である。炭素は、蛋白質、脂質、糖質、核酸といった全有機分子の骨格を作る元素で、生命の化学的基盤だ。更に地球にもたらされた水の殆どは長周期の彗星が持ち込んだもので、海水の組成と彗星の水は殆ど一致していると強調した。しかし現在の学会主流の化学進化説からその見解は遠ざけられている様子である。他方パンスペルミアという概念は深遠で宇宙論的な問いであり、現実的にその是非を科学的に検討できる課題でもあり、友人の松井孝典教授も生前、もっと真剣に議論されてもいいのだが、それを研究する学者は少ないと述べていた。
最近、月や火星から隕石が飛来することが確認されている。このことは逆に地球から隕石が宇宙空間に放出されていることも暗示している。また地球近辺の太陽系外の惑星(最も近い恒星で約4.2光年)には、我々のような生命体(人間のような?)の存在が考えられるとも述べた(一光年は約9兆4600億km)。加えて現代では量子重力論の研究者の多くが“多宇宙論”を予言している。しかし今のところ、「他の知的生命体との遭遇」はしていない。
ポスト印象派の画家.ポール・ゴーギャンはWhere did we come from? Who are we? Where are we going? 即ち、『我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか』と題した絵画を描いた。これは人間の究極の問いでもある。チャンドラ博士の解説はF.ホイル卿の「我々は星の屑で出来ている」という言葉を彷彿とさせると同時に、ダーウィンの進化論的に生命体が生まれた可能性を示す傷跡は地球上に何一つ残っていないとも強調した。
筆者にとり、地動説を説いたコペルニクス的に見えるこの学説は、多少の異論部分があるにせよ、かなりの説得力と深遠な神秘性を伴って響いたものである。『我々は何処から来たのか』__の問いに対し、読者各位はどのような想いを馳せておられるであろうか。
(紺野大介、清華大学招聘教授・北京大学客座教授)
*以下に、紺野大介先生の略歴をご紹介いたします。
紺野大介(コンノ ダイスケ/Daisuke Konno)先生の略歴
紺野大介先生は、科学技術者、企業経営者、大学教授、論説随筆家、幕末維新史研究家等、多方面で卓越した業績を残し「知の巨人」として知られています。
1945年生まれ。東京大学にて流体力学・流体工学等、自然科学を学び、工学博士号を取得。また旧ソ連のモスクワ大学 数理統計研究所への留学経験も持ち、 更に野村Harvard Management Schoolにて「トップのための経営戦略講座」を修得する等、国際的な学識を深められました。
1999年までの長年にわたり、日本の大手企業二社にて新規事業本部長、研究開発本部長、取締役CTOなどの要職を歴任。企業活動と並行して、日本機械学会論文審査委員、通産省工業技術院の大型国家プロジェクト作業部会長、新潟市長顧問、新潟大学地域共同研究センター客員教授、更に日中科学技術交流協会常務理事を長年務め、中国要人ら国際的な橋渡し役としても尽力されました。
2000年以降は、1200名を超える第一級の専門家集団を束ね技術事業性評価を主目的とした公益シンクタンク「ETT」(創業支援推進機構)理事長兼CEOに就任、政府(経産省)系の国策会社「産業革新機構」初代取締役・産業革新委員を兼任、また社)次世代エネルギー研究開発機構CEOを併任。更に米国シリコンバレーVentureであるアルゴトチップ(ATC)社社外役員を兼務。他方、国政政党の要請に基づき与野党を問わず衆参国会議員へ国際情勢に関する講演も多数行ってきました。
学術面では、1994年より中国・清華大学摩擦学国家重点実験室(SKLT)招聘教授、2008年からは北京大学歴史学系中外関係史研究所(RICFRH)客座教授を務めており、中国を代表する両大学で教授職を持つ唯一の日本人でもあります。また国内では東大、東工大、慶応大、同志社大等の講師、財)松下政経塾・非常勤講師など歴任。現在、社)日本藍藻協会名誉会長、米国Dimaag-AI社の役員を兼務されています。
また、人文科学分野においても、紺野先生の業績は特筆すべきものがあります。幕末の志士による名著・橋本左内『啓発録』、吉田松陰『留魂録』、佐久間象山『省愆録(せいけんろく)』の英完訳書を22年かけ、幕末三部作として日本で初めて完成させました。これらの書籍は、世界中の大学・研究機関に無償で寄贈され、日本の精神文化を国際社会へ伝える役割を果たしています。 特に『啓発録』については、完成直後に当時の米国大統領 ビル・クリントン氏より感謝状が贈られています。
加えて、55年間で世界約70ケ国300都市をビジネスやアカデミアの所用で歴訪、ケンブリッジ大学(英国)を初め、欧州日本学研究所CEEJIA(フランス)等からの招聘により、日本人の倫理観、大和魂、美意識、謙虚さといったエートスについての講演も多数。その他、朝日選書 『中国の頭脳 清華大学と北京大学』(朝日新聞社)、『民度革命のすすめ』(東邦出版)、『音楽と工学の狭間で』(新樹社)等の著書があり、理系と文系を自在に行き来する知性を体現し続けておられます。以上。

