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シンクタンクからの眼 2025年10月22日

元国務副長官・アーミテージ氏と、機内で『Wisdom Columns』

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今回は『賢者コラム Wisdom Columns』として、「知の巨人」として広く知られ、多くの人々を啓発し導いてこられた紺野大介先生の寄稿文をご紹介いたします。

元国務副長官・アーミテージ氏と、機内で『Wisdom Columns』

 中国北京の清華大学は2011年4月に創立100周年を祝った。OBである当時の国家主席胡錦涛総書記や序列第二位の呉邦国全人代委員長、次期最高指導者が内定していた習近平国家副主席、中国の経済皇帝/中国のゴルバチョフとも言われた朱鎔基元総理、それにOBではないが温家宝総理らが出席、海外在住のOB約5万人も祝賀に一時帰国し、人民大会堂ほか各所で祝典が開かれた。序ながら筆者は2001年の創立90周年記念式典にも出席した。
 羽田から北京まで往路、全日空(ANA)に搭乗した。機内は比較的空いており、筆者の航空券は最前列進行方向に向かい左窓側席だった。見ると反対側の右最前列窓側に精悍な顔つきのプロレスラーのようながっしりした体躯をした丸坊主の白人男性が座っていた。アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領政権下で国務副長官を務めたR.アーミテージ(Richard L. Armitage)氏だった。空調が適度に効いて快適だったが、氏にはやや暑く感じられたのか白いワイシャツを二の腕の半ばまで捲くり、しきりに腕を上げ下げしていた。二人の間に乗客はおらず座席はかなり離れていたけれど、胸板の厚さは半端でなく、鉄人ボデイビルダーを思わせる圧倒するような逞しい肉体に目を奪われたものである。しかしその時、接点はなかった。
 数日後日本への帰国便もANAに搭乗した。すると偶然というべきか、前列2列目左窓側の筆者の隣にアーミテージ氏が来て着席した。人生には時に不可思議なことが起きるけれども、筆者は羽田までの約3時間の彼との対話の内容を考えていた。まず北京行きでもお見かけしたことを伝え、往復の日程から考えて氏も清華大学創立100周年記念に招待され出席したのではと推察し、確認したところYesと肯定したのである。
 名刺交換をしたものの初対面であり、適当な話題を模索したものである。筆者は一民間人に過ぎないけれども、諸々の機会やご縁などで北京の中南海、ホワイトハウス、パリの大統領官邸であるエリぜ宮などへ所用で行ったこともあり、内部の雰囲気もそこそこ存じ上げている。しかしお相手が米国政治家とはいえ機内でもあり、いきなり国政の話は無粋で適当ではない。そこで現在は何処にお住まいか聞くと、ワシントンD.C. 郊外アーリントン地区のマンションとのこと。そこはポトマック川を跨いで、スミソニアン広場のオベリスク(ワシントン記念搭)や米国国会議事堂を見降ろせる高台にある。ここは当時筆者の次男坊が住んでいた同じマンション。私事ながら次男坊はIMF(国際通貨基金)の奨学金を得て米国の大学院を出たdutyとして一定期間ワシントンD.C.にあるIMF本部に勤務の必要があったことによる偶然であった。またアーミテージ氏の年齢を伺うと筆者と同じ1945年生まれ。このとき親近感のようなものが僅かに芽生えた。
 アーミテージ氏から筆者に清華大で何を講義しているのか、又どのくらいの頻度で東京~北京間を往復しているのか等の質問があった。アーミテージ氏は日本には年7~8回、中国には1~3回、シンガポールに5~6回、中東にも頻繁に出張するが、ヨーロッパはめったに行かないとのこと。こうした談笑中に機内食が準備された。氏の嗜好は日本食が大好物、日本人の舌はアメリカ人より上と断言できる! とかベンチプレスで200kgを持ち上げることができる!__とった四方山話が続いたのである。
 アーミテージ氏はワシントンD.C.から近いメリーランド州にある名門・海軍兵学校卒業の生粋の海軍軍人。士官学校である母校に高い誇りを持っている様子であった。そこで筆者も以前、海軍兵学校キャンパス内のアナポリス博物館へ行ったことなど話題とした。館内には幕末期に日本の浦賀へ上陸したペリー提督の油絵や、戦艦ミズーリ号上の日本降伏文書調印式にアメリカ代表として署名したマッカーサー元帥を表現したレプリカなど戦争歴史博物館の様相を呈し、先の大戦の終戦時を思い出させた。
 筆者自身も生誕地の満州・奉天市(現中国遼寧省瀋陽市)で太平洋戦争の終戦を迎え、父はソ連の捕虜となりシベリア抑留、母は条約を破り南下してきたロシア軍人の暴行を受けないよう顔に薄墨を塗り丸坊主となって男装、飢餓同然で母子共々奉天から旅順まで無蓋車に載り、帰国船に乗継いで日本へ引揚げてきたのである。奉天の家屋敷も失い、引揚後の内地にも食物もなく焼野原となっていた。日清戦争、日露戦争、第一次大戦は時代的に距離があったけれども、物心ついてから自己の境遇を含め犠牲者310万人を出した太平洋戦争とは一体何だったのか、一時期集中的に学んだことがある__といった体験を話した。
 アーミテージ氏は「知日派」と言われるが日本語を殆ど話せなかった。加えて政治&軍事slangのようで聞き慣れない語彙が幾つもあった。従って所々メモを取り、確認をとりながらであり、以下は聞き違えがなければの対話である。
 アナポリス歴史館の展示物で、筆者にとってひときわ印象的だったのは、太平洋戦争時、激戦地となった「硫黄島の戦い」の展示場。日本兵22,000名ほぼ全員戦死、アメリカ兵60,000名投入で7,000名戦死30,000名負傷の大激戦地。類まれな担力で知られた総指揮官の栗原忠道陸軍中将(殉職後大将)は壮絶な最後で海辺で割腹自決。少し遅れて日本海軍の市丸利之助 少将(殉職後中将)が戦場で散華した際、知る人ぞ知る、市丸少将の指示に基づく有名な書状『ルーズベルトに与える書』が博物館に収められていた。
 夥しい戦禍の中、市丸少将はこの書状を和文、英文(ハワイ生まれの日系2世の兵曹に英訳させた)で2通したため、戦後アメリカ将校が日本兵の遺体を検査することを見越し部下の大尉の胴体に巻き付けさせ突撃、戦死後目論見とおり米軍により回収された。この書状の内容が当時の世界情勢の的確な把握と、開戦発端がF.ルーズベルトの策略に依存する所が多いこと。事実、開戦直前の公開されているルーズベルト大統領主催の作戦会議において、一次資料である『スチムソン日記』(H.L.Stimson1867~1950)には、日米間で“いつまでも躊躇している日本を如何にして開戦に引きずり込むか”__会議されたことが記録されている。こうした中、立場上止む無く戦争へ突入していった少将による悠久の大義が記されている。死に直面しながら残したこの文面は崇高で格調高く、終戦後アメリカの多数のMediaもその書状を取り上げ絶賛の報道をし、全米の人々を感動させた訳だが__その史実を知っているか? 聞いた。
 アーミテージ氏は無論、『ハルノート』も『スチムソン日記』も知っていた。次に驚いたことにカタコトで“appare”と発した。殊にこの『ルーズベルトに与える書』は日本人を理解する上でアメリカ海軍でも有名らしく、ambivalence(直訳すれば両価性?=心の中で愛憎半ばする相反する揺れ動く気持ち)という難しい語彙を使い、成り行きの如何に拘わらず太平洋戦争へ突入して行った愚挙、一方で市丸少将という一提督の勇猛で果敢な行動に対する感銘を述べた。アーミテージ氏の敵味方に無関係に「立派なものは立派」との軍人らしい率直さと明晰な雰囲気が伝わってきたものである。当時の米国の国民や、現在でも氏のような政治指導者までがその書状を評価している客観的事実は考えさせられる時間であった。
 暫くしてアーミテージ氏はベトナム戦争に志願して従軍したことを語った。途中ベトナムに駐留していたDestroyer(米国駆逐艦)に搭乗したこと、また自己都合で撤退したニクソン政権にはresentment(憤り)を感じた様子。その結果、自己の信念を遂げるべく現地の戦場に残留、空挺師団や歩兵師団入り交じり戦闘したこと、当時のCobra(軍用ヘリコプター)の構造などを話しつつ、1974年前後サイゴン陥落時には、Aircraft Carrier(空母)上は南ベトナム人が溢れていた。このため何機ものCobraは甲板上に着陸出来ず海中へ投棄するなど砲火の中を脱出したこと、結果的に30,000人以上のベトナム人を救出しフィリピン等へ逃がす作戦を挙行したことなど当時の任務について話した。
 筆者も以前ホーチミン市の戦争証跡博物館へ行ったことがある。見学後、惻隠の情を通り越し他国の価値観まで蹂躙し300万人の犠牲者を出した米国のテロに激しい憤りが伝搬した。また市内から北西70kmにあるクチトンネル(BEN DUOC全長200km)へも行き、その蜘蛛の巣状の地下坑道の一部に潜った。化学兵器である枯葉剤(defoliants)4,400万リットル投下から身を守り、決然と戦うため考案された地下トンネルはカンボジアからラオスにまで続いていた。内部には所々に少し広い空間の食糧補給所もあり、炯眼なベトナム人愛国者の心中を想いつつ、狭いトンネルでは衣服の両肩が土でかなり汚れる程であった。
 「戦争」は補給が勝敗を決定すると言われている。管見に過ぎないけれどもベトナム戦争でベトナムが勝利したのは為政者の判断や、代理戦争の側面や、近代兵器云々など幾つもの理由があったにせよ、実はそれらは二次的要素。「食糧が最大の戦略物資」なのである。
乱暴にいえばベトナムのお米は三毛作、四毛作は当たり前、熱帯に近く殆どあらゆる果物も豊富で手を伸ばせば取れる。川や海には小魚が跳ねており、釣り糸を垂れるまでもなく網で掬えるほど取り放題。塩漬け、砂糖漬けなど少し加工すれば保存も問題ない。こういった食料資源がもたらす恵まれた国土、即ち何処まで戦争が続いても食料自給率100%以上であったことがアメリカを狂わせ、ベトナム側に「食糧補給」に支障が無かったことが戦争勝利の最大の深層要因と思念している。
 又アーミテージ氏は3度の従軍を通じて、ベトナム語をほぼ完全に修得したそうである。現在のベトナム語は17世紀フランスの宣教師が考案した模様で、この言語は植民地時代の影響でフランス語と中国語の影響を受けていること、特に声調が難しく6声あることなど教えて戴いた。6声を発音するのが難しいといいつつ彼は楽しそうに述べながらプロレスラーのような分厚い胸板同様、分厚い教養の高さが漂う瞬間でもあった。
 ベトナムからの帰途、筆者も記念に分厚い『日越/越日辞典』(TU DIEN:NHAT VIET/VIET NHAT)を購入した。またアーミテージ氏は奥さんとの間に3人の子がいるけれども、罪滅ぼし(確かas a way of atonementという語彙を使った)にベトナムの子供達何名かの里親(foster parent)になっている旨も話した。自信のある親は自分のほころびを子供に見せる__といわれている。話しぶりから里親であるアーミテージ氏とベトナムの子供たちの関係は、ほころびも行き届いた心温まるものとなっているのであろう。
 機体は富士山上空付近へ差し掛かっていた。最後に、筆者の関心事、「ユ―ラフリカ」(Eurafrique)について質問した。即ち、「ヨーロッパ統合の中の仏英領アフリカ」というTerminologyがあるように、法規上アフリカ各国は独立しているが、政治的、軍事的、経済的には未だに英仏などから分断統治(divide and rule)されている現実がある。
 敷衍すれば、G7などと言われながら日本は戦後70年経過後も特に安全保障問題、食糧問題他殆どをアメリカにお伺いを立てる事実上の分断統治が存在___と認識している旨かいつまんで述べ、どうしたらそれを終わらせることができるか?聞いた。するとアーミテージ氏は眼光鋭く内容を察知し、一呼吸おき躊躇なく「それはアメリカと交渉できる政治家(Politicians)の器質(quality)次第」と述べた。日本ならいつでも分断統治を終わらせ完全独立は可能と強調した。この時、政治家をStatesmenとは言わなかったのである。それでも清濁併せ呑む人物の質と器が日米間交渉に値する程高ければ問題ない。巨視的な遠近法とでもいうべきアメリカ政界も日本が考えるほど偉大でなく、deceive(騙し)も尋常でなく溢れてれており、同じように不完全なのだ、といわんばかりの論調であった。
 額面通りに受け取れば、日本の政治家/政治屋や官僚達が心底腹をくくり、つまるところ泣き寝入りせず ”言挙げ“し、アメリカが可笑しい事を言えば「それは可笑しいですよネ!」と臆せず正々堂々とdebate(討論)できればOKとのことだろう。
 羽田到着のアナウスがあった。アーミテージ氏は筆者に向かって、「ところでDr., 貴方の目で見てそのような器量のStatesman and/or Politicianは、今の日本の政界にいますか?」__との質問があった。そしてこの会話が氏との最後となった。
 アメリカ政府の安全保障担当だったアーミテージ氏は有名な知日派であるが、親日派だったか否かは分からない。ジャパン・ハンドラーとしても名を馳せていた政治家でもあった。
 そして人類は有史以来、戦争が続いている。それに国家には戦争に向かう仕組みがある。身を捨てるに値するほどの祖国はあるか? 戦争のない世界を作るためには、どうしても国家主権に対して個人がはみ出るような形態が必要である。しかし大多数が真のアナーキストになれるかどうかには別の難題がある。
 また戦争を否定する人は人間の歴史が始まって以来いた。しかしその道を歩いた人だけが正しく、他の人を貶めることは人間全体のしてきたことを貶めることになるのだろう。その虚しさ、切なさを受け入れる以外に私達が今ここに生きていることを受け入れる道はないのかもしれない。
 (紺野大介、清華大学招聘教授・北京大学客座教授)

*以下に、紺野大介先生の略歴をご紹介いたします。
紺野大介(コンノ ダイスケ/Daisuke Konno)先生の略歴
 紺野大介先生は、科学技術者、企業経営者、大学教授、論説随筆家、幕末維新史研究家等、多方面で卓越した業績を残し「知の巨人」として知られています。
 1945年生まれ。東京大学にて流体力学・流体工学等、自然科学を学び、工学博士号を取得。また旧ソ連のモスクワ大学 数理統計研究所への留学経験も持ち、 更に野村Harvard Management Schoolにて「トップのための経営戦略講座」を修得する等、国際的な学識を深められました。
 1999年までの長年にわたり、日本の大手企業二社にて新規事業本部長、研究開発本部長、取締役CTOなどの要職を歴任。企業活動と並行して、日本機械学会論文審査委員、通産省工業技術院の大型国家プロジェクト作業部会長、新潟市長顧問、新潟大学地域共同研究センター客員教授、更に日中科学技術交流協会常務理事を長年務め、中国要人ら国際的な橋渡し役としても尽力されました。
 2000年以降は、1200名を超える第一級の専門家集団を束ね技術事業性評価を主目的とした公益シンクタンク「ETT」(創業支援推進機構)理事長兼CEOに就任、政府(経産省)系の国策会社「産業革新機構」初代取締役・産業革新委員を兼任、また社)次世代エネルギー研究開発機構CEOを併任。更に米国シリコンバレーVentureであるアルゴトチップ(ATC)社社外役員を兼務。他方、国政政党の要請に基づき与野党を問わず衆参国会議員へ国際情勢に関する講演も多数行ってきました。
 学術面では、1994年より中国・清華大学摩擦学国家重点実験室(SKLT)招聘教授、2008年からは北京大学歴史学系中外関係史研究所(RICFRH)客座教授を務めており、中国を代表する両大学で教授職を持つ唯一の日本人でもあります。また国内では東大、東工大、慶応大、同志社大等の講師、財)松下政経塾・非常勤講師など歴任。現在、社)日本藍藻協会名誉会長、米国Dimaag-AI社の役員を兼務されています。
 また、人文科学分野においても、紺野先生の業績は特筆すべきものがあります。幕末の志士による名著・橋本左内『啓発録』、吉田松陰『留魂録』、佐久間象山『省愆録(せいけんろく)』の英完訳書を22年かけ、幕末三部作として日本で初めて完成させました。これらの書籍は、世界中の大学・研究機関に無償で寄贈され、日本の精神文化を国際社会へ伝える役割を果たしています。 特に『啓発録』については、完成直後に当時の米国大統領 ビル・クリントン氏より感謝状が贈られています。
 加えて、55年間で世界約70ケ国300都市をビジネスやアカデミアの所用で歴訪、ケンブリッジ大学(英国)を初め、欧州日本学研究所CEEJIA(フランス)等からの招聘により、日本人の倫理観、大和魂、美意識、謙虚さといったエートスについての講演も多数。その他、朝日選書 『中国の頭脳 清華大学と北京大学』(朝日新聞社)、『民度革命のすすめ』(東邦出版)、『音楽と工学の狭間で』(新樹社)等の著書があり、理系と文系を自在に行き来する知性を体現し続けておられます。以上。

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