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シンクタンクからの眼 2025年6月28日

屠呦呦、被団協、ノーベル賞に関する愚感 『Wisdom Columns』

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今回は『賢者コラム Wisdom Columns』として、「知の巨人」として広く知られ、多くの人々を啓発し導いてこられた紺野大介先生の寄稿文をご紹介いたします。

屠呦呦、被団協、ノーベル賞に関する愚感

 傘寿を過ぎいまだに求道者の道半ばであり、「知の巨人」ならぬ「痴の虚人」を常々自認しているけれども、当研究所代表より何か論考をとのご要請、生き恥晒しを覚悟の上、しばらくお付き合い願えればと思う。
 10年程前の話になるが北京大学で講義後、歴史学系中外関係史研究所所長であった畏友王暁林先生から北京大学が発刊したばかりの冊子『発展通訊』(Peking University Newsletter)2015年季刊第39号を戴いた。この号は中国人による初めてのノーベル医学・生理学賞受賞者・屠呦呦(pinyin表記はTu Youyou, カタカナ表記ではト・ヨウヨウ)について記載されている。14億中国人のノーベル賞が極端に少ないのは、もっぱら毛沢東の「又紅又専」(you hong you zhuan:社会主義的自覚を持ち、専門的な知識と技術を身につけよ)という基本政策に拠ると多くの中国学者が異口同音に発する言葉の一つである。21世紀になり文化大革命期の思想概念が未だ学者達の底流で影響を与えているのか否かは不明であるけれども、この趣旨は中国共産党に忠誠下、党の指向する専門性の研究能力を問う、といったものであろう。他方、1957年の「パリテイ非保存」に関する研究で楊振寧、李政道、1998年の「分数量子ホール効果」の研究で崔琦、2000年には文学賞の高行健らのノーベル賞受賞者は全て外国籍。従って屠呦呦は文字通り中国籍で初の受賞者なのである。
 屠呦呦女史は1930年浙江省寧波市生まれ。名前の「呦」は詩経の一節「呦呦鹿鳴 食野之苹」(ようようとして鹿の鳴くあり、野のヨモギを食らう)から採られたもの。北京医学院(現在の北京大学医学部)薬学科で伝統中国医学(Chinese Traditional Medicine:正式名称は中医薬)を専攻し1955年に卒業、その後は中国中医研究院に所属。マラリアには古くから特効薬キニーネ(クロロキン)があったが1960年代に原虫に耐性ができ効力が低下、特にベトナム戦争ではマラリアに感染し中国兵士が多数死亡したため、毛沢東の命令で523計画(1967/5/23日マラリア新薬開発プロジェクト発足)に参画。彼女は中医薬の古典を徹底的に調べ、約2000に及ぶ中医薬調剤法を検討、約200種の薬草から380の物質を抽出し、マウス実験でその中の一つ青蒿素(アルテミシニン)に効果が認められ、サルでの検証後、彼女は自ら臨床実験の被験者となり効能効果と安全性を確認した。この物質は開発途上国で多くの人命を救ったとのことである。最近ではこのアルテミシニンの誘導体は抗癌物質としても注目されている。兎も角、この功績は1970年代に達成されたが、学者として脚光を浴びることなく40年が経過。研究者としての経歴も極めて地味なもので、①大学院で学んでいない、②海外での教育・研究経験がない、③中国科学院などの確固たる国立研究機関に所属していない等「三無科学者」と呼ばれていたそうで、彼女の受賞はこうした三無経歴でもノーベル賞受賞の実証例として経歴や環境に恵まれない多くの研究者を大いに力づけるものとなった。
 ここで閑話休題。以前デンマークへ出張の帰途、友人の紹介もありスエーデンのストックホルムにあるカロリンスカ大学(研究所)を訪問した。周知のとおり医学系の単科教育研究機関では世界最大といわれ、内部にノーベル医学・生理学賞選考委員会の本部がある。
 ここでノーベル医学・生理学賞選考委員長であった腎機能生理学&血液学が専門のアぺリア教授(Prof. Anita Aperia:女性)と最近のカロリンスカの研究動向や毎年のノーベル賞選考委員会の実情などにつきお話を伺った。ノーベル賞は全世界に推薦を募るけれども推薦状を依頼する先は極めて限定されている。ノーベル賞会議(The Nobel Assembly)には約50名おり、ここで推薦状をチェックし、その後6名で構成されるノーベル賞選考委員会に委ねて決定する。基本的に選考委員全員がカロリンスカの学者で構成されるが、アイルランド人やフィンランド人が入ることもある、といった事務的な話を拝聴後、個人的にかねがね興味のある選考に際しての「栄誉の合理性」について見解をお伺いした。
 というのも以前、自身の幾多の栄誉も辞退した比較法学者の故野田良之東大名誉教授のエッセイ『栄誉考』を拝読、考え方に共感したためである。日本では過去に28名のノーベル賞受賞者がいるけれども、現在でも受賞願望者で溢れていて辞退者の顔は見えない。
 野田先生は府立一中(現日比谷高校)、一高、東京帝国大学法学部を卒業した秀才。その後、東大助手、助教授、教授となった比較法学者であり、フランス法講座を持ちフランスのパリ大学教授を併任し、日本法を教授した。帰朝後は「比較法原論」の初代教授、60歳定年退官後は学習院大学で「法哲学」を担当し、70歳で定年退職した。その後も引く手あまたの名誉職要請に対し、これ以上国家から物心両面で優遇されるのは心苦しい__と総て峻拒し、清涼感を漂わせ自宅に引っ込んだのである。
 このエッセイを要約すれば、人間は生まれた時から両親より受け継いだ遺伝子によって規定されており、出発点からして皆違っている。各人が実に様々な才能を、様々な豊かさの度合いで与えられ生まれてくる。その質量を含め恵まれた才能は天与の賜物であり、その人の功績に何ら関係ない。恵まれた人が立派な成果を挙げても、それは当たり前で成すべき事を成したに過ぎない。野田先生は栄誉を受けられた方々の立場を十分に尊重しており、これを非難するつもりは毛頭ない__と前置きしつつ、先生の栄誉嫌いは徹底しており、日本学士院会員推挙も固辞し、パリ大学名誉博士号なども辞退した。即ち栄誉を求める心というのは、本来非合理的なものであり、栄誉に合理性を持たせることは理論的に無理ではなかろうか、__というもの。フランスの哲学者モンテーニュも引き合いに出して16世紀既に「栄誉に合理性無し」とした考え方に全面的に組する、としてエッセイでは幾重にも栄誉の非合理性につき言及している。即ち栄誉に値する功績が大きいか小さいかが合理的に判定される為には、比較される人々が同じ条件に置かれていなければならない。武士道を少し齧ったことのある筆者流の言い方をすればノーブレス・オブリージュ(noblesse oblige)の如く、能力的、経済的に恵まれた高い位置にいる者が悪い条件下にある者より一層良い結果を生むのは当たり前であり或る種の責任である、ということであろう。問題は無数の選ばれなかった人に比し、真により優れていたと言えるのか否かにある。量子物理学者R.ファインマンは受賞第一報の知らせを受けた直後「ノーベル賞も本質的に不公平で、すごく鬱陶しい。権威は尊敬に値しない」と述べた。哲学者J.P.サルトルは「何人もノーベル賞受賞などで神格化するに値しない」と述べノーベル賞受賞自体を辞退した。即ち真に表彰されるべきは、無名・謙虚で世に多くの貢献した人である。しかし殆どのケースは既に名を成している人に栄誉が集中している、と言及している。これについて公正、緻密、地道を旨とし深い見識を有するアぺリア教授は、筆者の答えづらい質問に正面から向き合いながらも「栄誉付与の合理性の有無」に関しては極めて難題だと述べておられた。
 一方、社会的強者でなく、個人的栄誉でもなく、神格化でもなく、一瞬にして21万人が死亡した第二次世界大戦の広島長崎への原爆投下に対し、生き残ったものの未だ後遺症に苦しむ筆舌に尽くし難い体験、核廃絶と人類存続の望ましい未来に望みを託し世界に向けて運動してきた昨年の被団協(日本原水爆被害者団体協議会)ノーベル平和賞受賞は、久々に異論のない世界平和を俯瞰した適切な受賞であった。また授賞式会場で予め用意したスピーチとは別に、田中凞巳代表は即興的にしかも十分熟慮の上で追加し「国家による戦争で死亡した一般国民への政府の責任(保証)」についても言及した。当局よりクレームがついたようであるが、その後もこの発言を撤回せず一般市民への想いに対する確固たる信念は「核廃絶を通しての人類と平和」に関する深い問題の核心を突いていたといえよう。他方、被団協の方々の長年の行動や忍耐に対し、昨年からノーベル平和賞選考委員会委員長となったノルウェーの若いJ・フリードネス氏による、その溌剌とした姿勢、選考理由の正鵠を射た口上を聞いていると、現在のますます混沌とした世界、未だ未だ見捨てたものではない__と愚考したものである。
 (紺野大介、清華大学招聘教授・北京大学客座教授)

*以下に、紺野大介先生の略歴をご紹介いたします。
紺野大介(コンノ ダイスケ/Daisuke Konno)先生の略歴
 紺野大介先生は、科学技術者、企業経営者、大学教授、論説随筆家、幕末維新史研究家等、多方面で卓越した業績を残し「知の巨人」として知られています。
 1945年生まれ。東京大学にて流体力学・流体工学等、自然科学を学び、工学博士号を取得。また旧ソ連のモスクワ大学 数理統計研究所への留学経験も持ち、 更に野村Harvard Management Schoolにて「トップのための経営戦略講座」を修得する等、国際的な学識を深められました。
 1999年までの長年にわたり、日本の大手企業二社にて新規事業本部長、研究開発本部長、取締役CTOなどの要職を歴任。企業活動と並行して、日本機械学会論文審査委員、通産省工業技術院の大型国家プロジェクト作業部会長、新潟市長顧問、新潟大学地域共同研究センター客員教授、更に日中科学技術交流協会常務理事を長年務め、中国要人ら国際的な橋渡し役としても尽力されました。
 2000年以降は、1200名を超える第一級の専門家集団を束ね技術事業性評価を主目的とした公益シンクタンク「ETT」(創業支援推進機構)理事長兼CEOに就任、政府(経産省)系の国策会社「産業革新機構」初代取締役・産業革新委員を兼任、また社)次世代エネルギー研究開発機構CEOを併任。更に米国シリコンバレーVentureであるアルゴトチップ(ATC)社社外役員を兼務。他方、国政政党の要請に基づき与野党を問わず衆参国会議員へ国際情勢に関する講演も多数行ってきました。
 学術面では、1994年より中国・清華大学摩擦学国家重点実験室(SKLT)招聘教授、2008年からは北京大学歴史学系中外関係史研究所(RICFRH)客座教授を務めており、中国を代表する両大学で教授職を持つ唯一の日本人でもあります。また国内では東大、東工大、慶応大、同志社大等の講師、財)松下政経塾・非常勤講師など歴任。現在、社)日本藍藻協会名誉会長、米国Dimaag-AI社の役員を兼務されています。
 また、人文科学分野においても、紺野先生の業績は特筆すべきものがあります。幕末の志士による名著・橋本左内『啓発録』、吉田松陰『留魂録』、佐久間象山『省愆録(せいけんろく)』の英完訳書を22年かけ、幕末三部作として日本で初めて完成させました。これらの書籍は、世界中の大学・研究機関に無償で寄贈され、日本の精神文化を国際社会へ伝える役割を果たしています。 特に『啓発録』については、完成直後に当時の米国大統領 ビル・クリントン氏より感謝状が贈られています。
 加えて、55年間で世界約70ケ国300都市をビジネスやアカデミアの所用で歴訪、ケンブリッジ大学(英国)を初め、欧州日本学研究所CEEJIA(フランス)等からの招聘により、日本人の倫理観、大和魂、美意識、謙虚さといったエートスについての講演も多数。その他、朝日選書 『中国の頭脳 清華大学と北京大学』(朝日新聞社)、『民度革命のすすめ』(東邦出版)、『音楽と工学の狭間で』(新樹社)等の著書があり、理系と文系を自在に行き来する知性を体現し続けておられます。以上。

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